目に砂

人生の人生

現実と幻想、トレードオフ説(いやだ!)

夢妄想の解像度と打ちのめされ度が比例するという話です。このひとことがすべてなので、この先は読まなくともよろしい。

 

小学生の最後のほうか、もしくは中学生くらいのときに初めて夢小説というものを知りました。以来なんとなくずっと今まで、たぶんこれからも夢の民として生きていくんだと思うんですよ。

そもそも夢という概念を知る以前のおそらく小学校のはじめ、あるいはその前から「もしあのキャラクターとお友だちだったら」などと空想していたので。だから私の夢の入り口は友情夢です、たぶん。

 

で、子どもの時分は未来が希望に満ち満ちていて、将来は何にだってなれると、不安などひとつもないと信じていました(子どもがそうあれない環境はちょっとどうにかしたほうがいいと思うので、これは別におかしなことではないです)。想像力は夢を加速させます。私は幻想にまどろんだまま十代を終えました。途中途中でよろしくないことはあったけれど、それでも自分と未来とを信じていられたのでなにも怖くはありませんでした。ただ実際に人生を歩むに際して、私は漠然とした希望のままなにも、まじでなにも考えずに生きて、あるとき急につまずいてしまったわけです。そうしてやってきました大人になった未来、しかし思っていたのとはかなり違う。やわらかく表現するならば、生き抜くためにはちょっと工夫が必要かなってところです。

これまでの歩みに後悔がないわけはないですが、得られたものもあります。幻想の海から引き揚げられて、あるいは空から引き摺り下ろされて、とにかく地に足をつけることができたのはいち生活者としては必要なことだったでしょう。霞を食べて生きていくことはできませんからね。

 

現実を見る力はとても重要です。あなたがどうかは知りませんが、私は現実世界に生きているので。自分の置かれた場所がわからなければ翻弄されてやがて死にます。現実は非情である、ポルナレフもそう考えていました。私も同意します。

とはいえ、悲しいことばかりではありません。生活が現実味を帯びるほどに、空想の世界もよりはっきりと描き出されていくのですから。なにが言いたいかってつまり、夢妄想のリアリティは実体験や得られた知識の豊富さにともなって強化されていくということです。これはよいことでしょう。作品世界での生活をより強く思い描けるのですから……そう思っていた時期が私にもありました。

 

現実的な自分は、キャラクターと生活習慣に努力で埋められない致命的なギャップがありまくるということに気付いてしまう。寝起きの時間、食の好み、インテリアの趣味、休日の過ごし方、どんなテレビ番組を観るか等々。

たとえば私はここ2年ほどは玄米を食べて生きていますけれど、これを白米には変えられてもパンだとかオートミールだとかグリーンスムージーだとかに変えるのはかなり難しい(体質なともあるので)。

経済力のギャップも気になります。前述のとおり私はまあ自分を養えるかな、程度のものですから、私より生活力のない相手を養えないし、私より経済的に豊かな相手に引け目を感じることでしょう(個人的な感覚ですが、あらゆる点で対等に越したことはないので)。

あとは言わずもがなルックス。そこはまあ好みの問題なので、なにをもってよいとするかは人によって異なりますが。それでも相手の人格について解像度を高めていくほど、なんとなく好みも類推できるような。

 

かくして私は現実世界の歩きかたがわかってきた一方で、幻想世界の泳ぎかたがわからなくなってきているわけです。いや両者がトレードオフだなんてそんなまさか……まさかですよね?