目に砂

人生の人生

妄想のナイフで刺されて痛がる愚かの宴

きのうの記事は本当に愚かの宴としかいえないものでした。私は愚かの宴が趣味なのかもしれないというほど愚かの宴をよく開きます。この宴は一人用なのであなたはお呼びではない。残念でしたね。

 

自分の妄想であれ他人の妄想であれ、いかに説得力をもって現実の私を打ちのめさんとしてきても、所詮すべては妄想です。公式以外はすべてうそ。画力、筆力、フォロワーの多寡など関係なし。有象無象の説得力バトルなど無意味なのです。無意味なのですが、時々こうして自分に言い聞かせるようにしなければすぐにそのことを忘れてしまいますね。もしかすると落ち込むのが趣味なのかも。それとも這い上がるほうでしょうか。

 

そんなものですから、私は私に、あるいは私と似通った愚かさを持つかもしれない誰か、もしかしたらあなたのために、何度も繰り返さなければなりません。私の妄想も、あなたの妄想も、他の人の妄想も、出来不出来にかかわらずすべてマボロシです。完成度の高い妄想は完成度の高い妄想にすぎず、完成度の低い妄想は完成度の低い妄想にすぎません。妄想がキラキラしていようがギトギトしていようが、そこに優劣はないのです。うんこで言えば(私はうんこでたとえるのが好きなので)、快便でも軟便でもうんこはうんこでしかなく、それ自体に序列はありえないということです(健康かどうかをはかれますけれど、健康なのはうんこではなくそれを出した生き物のほうなので)。

美しい虚構は美しい虚構、拙い虚構は拙い虚構。どんな理屈を並べて強化されているつもりになっても、虚構であることに変わりはありません。完成度で競えるのはせいぜい脳みその出来くらいのもので、虚構そのものが正しくなることはないんですね。マウントを取ったつもりになるのは哀れだし、マウントを取られたつもりになるのも哀れです。その負の情動は本来生まれなくてもよかったはずで、私は、あなたは、ほかの誰かは落ち込むはずもなかった。いらん情動でマイナス方向に盛りあがること、これが愚かな宴です。

 

安全ピンで指先を突いてしまっただけのことを、ナイフで臓物を抉られたかのように感じるのは愚かの宴ではよくあることです。ないナイフを見てしまうんですね。それを自分から土手っ腹に叩き込むのは狂気の沙汰ですが、愚かの宴ではそれをやる。そして痛がり(イマジナリー痛み)、喪失し(イマジナリー喪失)、苦しむ(イマジナリー苦しみ)。かわいらしいこと。

 

かくしていまこの時点で私は愚かさを反省しています。けれど愚かの宴はまたやります。何度も。死ぬまで。もしかしたら死後も。宴は……楽しいからね。

現実と幻想、トレードオフ説(いやだ!)

夢妄想の解像度と打ちのめされ度が比例するという話です。このひとことがすべてなので、この先は読まなくともよろしい。

 

小学生の最後のほうか、もしくは中学生くらいのときに初めて夢小説というものを知りました。以来なんとなくずっと今まで、たぶんこれからも夢の民として生きていくんだと思うんですよ。

そもそも夢という概念を知る以前のおそらく小学校のはじめ、あるいはその前から「もしあのキャラクターとお友だちだったら」などと空想していたので。だから私の夢の入り口は友情夢です、たぶん。

 

で、子どもの時分は未来が希望に満ち満ちていて、将来は何にだってなれると、不安などひとつもないと信じていました(子どもがそうあれない環境はちょっとどうにかしたほうがいいと思うので、これは別におかしなことではないです)。想像力は夢を加速させます。私は幻想にまどろんだまま十代を終えました。途中途中でよろしくないことはあったけれど、それでも自分と未来とを信じていられたのでなにも怖くはありませんでした。ただ実際に人生を歩むに際して、私は漠然とした希望のままなにも、まじでなにも考えずに生きて、あるとき急につまずいてしまったわけです。そうしてやってきました大人になった未来、しかし思っていたのとはかなり違う。やわらかく表現するならば、生き抜くためにはちょっと工夫が必要かなってところです。

これまでの歩みに後悔がないわけはないですが、得られたものもあります。幻想の海から引き揚げられて、あるいは空から引き摺り下ろされて、とにかく地に足をつけることができたのはいち生活者としては必要なことだったでしょう。霞を食べて生きていくことはできませんからね。

 

現実を見る力はとても重要です。あなたがどうかは知りませんが、私は現実世界に生きているので。自分の置かれた場所がわからなければ翻弄されてやがて死にます。現実は非情である、ポルナレフもそう考えていました。私も同意します。

とはいえ、悲しいことばかりではありません。生活が現実味を帯びるほどに、空想の世界もよりはっきりと描き出されていくのですから。なにが言いたいかってつまり、夢妄想のリアリティは実体験や得られた知識の豊富さにともなって強化されていくということです。これはよいことでしょう。作品世界での生活をより強く思い描けるのですから……そう思っていた時期が私にもありました。

 

現実的な自分は、キャラクターと生活習慣に努力で埋められない致命的なギャップがありまくるということに気付いてしまう。寝起きの時間、食の好み、インテリアの趣味、休日の過ごし方、どんなテレビ番組を観るか等々。

たとえば私はここ2年ほどは玄米を食べて生きていますけれど、これを白米には変えられてもパンだとかオートミールだとかグリーンスムージーだとかに変えるのはかなり難しい(体質なともあるので)。

経済力のギャップも気になります。前述のとおり私はまあ自分を養えるかな、程度のものですから、私より生活力のない相手を養えないし、私より経済的に豊かな相手に引け目を感じることでしょう(個人的な感覚ですが、あらゆる点で対等に越したことはないので)。

あとは言わずもがなルックス。そこはまあ好みの問題なので、なにをもってよいとするかは人によって異なりますが。それでも相手の人格について解像度を高めていくほど、なんとなく好みも類推できるような。

 

かくして私は現実世界の歩きかたがわかってきた一方で、幻想世界の泳ぎかたがわからなくなってきているわけです。いや両者がトレードオフだなんてそんなまさか……まさかですよね?